※この技術は、2012年から保険適用になりました。
現在、PSA(前立腺特異抗原)による前立腺がん検診の普及とともに、早期の前立腺がんと診断される患者が増え続けています。また、食の欧米化に伴い、以前よりも前立腺がんの発症が増えていると見る向きもあります。早期前立腺がんの標準的な治療は前立腺を全摘する手術であるため、前立腺全摘術を受ける患者も増加を続けているのが現状です。日本泌尿器科学会の調査によると、04年1年間に全国で行われた前立腺全摘術は1万5580件。現在では、さらに全摘術は増加し、年間約2万件は全摘術が行われていると推測する専門家もいます。
前立腺全摘術を受けることで、ほとんどの前立腺がんは完治します。がん検診で発見される早期前立腺がんは決して怖い病気ではないのです。しかし、前立腺全摘術には、頻度は低いものの困った後遺症があります。
通常、前立腺全摘術後の患者のほぼ全員が尿失禁を生じるといわれています。ただし、時間の経過とともに失禁は改善され、ほとんどの患者は治癒します。また、骨盤底筋体操や尿道コラーゲン注入、抗コリン薬やβ刺激薬などの薬物療法が効果を示す患者もいます。しかし、排尿をコントロールする筋肉である尿道括約筋が、手術により傷付けられ機能しなくなった患者では、体操や薬物療法などの治療によっても、尿失禁は治りません。
東北大学医学部泌尿器科教授の荒井陽一氏らは、国内における尿失禁の現状を把握するため、08年に全国的な実態調査を、日本泌尿器科学会が認定している泌尿器科教育施設1202施設を対象に行っています(回収率56.7%)。その結果、オムツを必要とするような中等度から重度の男性尿失禁患者は日本全体で2235人存在し、07年1年間の新規患者数は358人と推計されました。
中等度から重度尿失禁の原因として過半数(59.1%)を占めるのは、前立腺がんによる前立腺全摘術でした。続いて神経因性膀胱が23%、前立腺肥大症手術が1割程度を占めていました。全摘術後患者のうち1~3%程度に、体操や薬物療法などの治療が無効な尿失禁が生じてしまう計算となります。このような患者では、膀胱に尿をためることがほとんどできず、オムツに依存した生活となります。命は助かっても、クオリティ・オブ・ライフ(QOL=生活の質)が大幅に損なわれてしまうのです。海外では、重度尿失禁が原因でうつ病を発症し、自殺に追い込まれたという報告もありますし、オムツ代が年間40万~50万円にも上り、経済的な負担を強いられている患者もいます。
しかも、これまでは「命を救っていただいた主治医に対して、命にかかわらない後遺症についてまでは、話しにくい。もともと、泌尿器関係の病気は口にしにくい」という気持ちが患者にあって、後遺症に悩む患者の実態を医師はほとんど把握することができないことが問題でした。
重度尿失禁の唯一の治療は、この人工尿道括約筋「AMS800」を埋め込むこと。
(米国アメリカン・メディカル・システムズ社提供)
このような患者にとって、唯一の治療法が人工尿道括約筋の埋め込み術です。海外では既に、重度尿失禁の標準治療として普及しています。例えば、米国では30年以上前から、この機器の埋め込み術による尿失禁治療が行われており、毎年、前立腺全摘術後患者の約3%が手術を受けているというデータもあります。また、欧州やアジア諸国などにも普及しています。お隣、韓国でも、年間100件程度の埋め込み手術が行われているようです。
世界で唯一の供給会社で同機器を開発した、米国のアメリカン・メディカル・システムズ社(AMS社)によると、これまでに治療を受けた患者は、全世界で13万人に上るということです。
実は日本でも、90年代から人工尿道括約筋埋め込み術が細々ながら行われていました。
AMS社の人工尿道括約筋の旧モデルは1990年に薬事承認され、93年から高度先進医療の認可を受けていたのです。しかし、日本人向けに改良した新モデルを薬事承認申請したこともあり、2007年から約2年間、国内供給が停止。ようやく昨年9月に、新モデルの薬事承認が下り、国内供給が再開したところです。AMS社によれば、承認を待ち望んでいた患者は多く、承認後、この人工尿道括約筋の埋め込み手術を受けた患者も少なくないということです。
人工尿道括約筋の埋め込み術は全身麻酔下で行われますが、手術の所要時間は1~2時間。入院期間も1週間弱で可能な治療です。また、感染や機器の初期不良さえなければ、長期間継続利用できることが、これまでのデータから実証されています。国内で過去にこの埋め込み術を受けた患者を対象とした調査では、10年間継続利用している患者の割合が7割を超えるというデータが出ているほどです。
加えて、患者の満足度も高いようです。治療後患者へのアンケートから「社会生活に支障がない」と回答した割合は91.4%に達していました。ただし、完全に尿失禁が治癒した患者の割合は46.6%で、1日に1枚の尿とりパットで対応できる程度の軽度の失禁は残る患者が多いようです。
人工尿道括約筋「AMS800」は、体内に埋め込むため、外からはまったく見えません。また、電子部品なども一切なく、尿意を感じたときに外から「コントロールポンプ」を押すという操作だけです。「コントロールポンプ」を押すことで、それまで生理食塩水が満たされることで尿道を締め付けていた「カフ」が緩み、尿が排出されます。「カフ」の中の水は、「圧力調整バルーン」に移りますが、ほどなくまた「カフ」に戻り、尿道を締め付けるという具合です。
(米国アメリカン・メディカル・システムズ社提供)
同治療法は現時点では先進医療の枠内で行われています。公的医療保険が効かないため、埋め込み手術と機器の費用約170万円は患者が全額自己負担しなければなりません。また、先進医療として埋め込み術の施設認定を受けている医療機関も限定され、原三信病院(福岡市)、東北大学病院、北海道大学病院、北里大学病院、国立がんセンター中央病院の5施設のみとなっています(10年2月1日現在)。