患者数の少ない希少がんでは、自分と同じ病気で闘っている患者さんが周囲にほとんどおらず、孤独な闘病生活を強いられることが多くなります。子どもや若い患者さんが多い希少がんの場合は特に、年齢の近い患者さん同士で悩みを共有できることが重要ですが、そのような機会は極めて少ないのが現状です。そこで岡山大学では、希少がんの若い患者さん同士やご家族をつなぐメタバースを開発し、2023年6月に仮想空間の公開を開始しました。どのようなメリットが期待されるのか、開発者である岡山大学学術研究院医歯薬学域医療情報化診療支援技術開発講座准教授の長谷井嬢先生(整形外科)に伺いました。
ポイント
新規に診断される患者数が1年間で人口10万人当たり6人未満のがんを「希少がん」と呼びます。希少がんの一つに、骨にできる代表的な悪性腫瘍である「骨肉腫」があります。日本国内で骨肉腫を発症する人は1年間に200人ほどで、このうち過半数が小児(0〜14歳)とAYA世代(15〜39歳の思春期・若年成人)です。
骨肉腫の治療は、順調に進んでも10カ月ほどかかりますが、小児・AYA世代は、進学や就職、結婚、出産など、ライフステージの変化が多いタイミングに当たります。子どもたちは学校に行けなくなったり、留年せざるをえなくなったり、進路に悩んだりすることになります。成人の患者さんも、働けなくなることによる生活の不安が生じるほか、治療によって運動器に障害が残って元の仕事に戻れなくなる場合もあり、社会復帰も課題になります。
同じ病気と闘っている同世代の患者さん同士でこうした悩みを共有し、励まし合うことができれば、精神的なつらさを軽減できるかもしれません。しかし、骨肉腫は希少がんであることから、同じ病気の患者さんが同じ病院で治療を受けていること自体が珍しく、年齢が近い患者さんとなると、さらに出会える確率が低くなってしまいます。そこで長谷井先生は、離れた場所にいる患者さん同士が交流できるメタバースを開発しました。
メタバースとは、インターネット上に構築される仮想空間のことです。長谷井先生が開発したメタバースには、パソコンはもちろん、タブレットやスマートフォンでもアクセスできるため、自宅からでも入院中の病院からでも参加できます。メタバースの中では、自分の分身となるキャラクターである「アバター」を設定し、空間内を自由に歩き回ったり、空間内にいる他の人たちと会話を楽しんだりすることができます。
自然豊かでリラックスできる空間
(画像:岡山大学「遠隔地の希少がん患者と家族をつなぐメタバース運用を開始」 )
離れた場所にいる患者さん同士が、空間内では目の前にいるかのように話せる
(画像:長谷井先生ご提供)
食べ物を買えるなど、若い世代を想定した設定で、空間自体をゲーム感覚で楽しめる工夫も
(画像:長谷井先生ご提供)
また、骨肉腫の治療によって
メタバース上なら繊細なテーマも話しやすい
(画像:岡山大学「遠隔地の希少がん患者と家族をつなぐメタバース運用を開始」 )
岡山大学学術研究院医歯薬学域医療情報化診療支援技術開発講座准教授 長谷井嬢先生(整形外科)
インターネット上での交流というと、オンライン会議ツールを活用することも考えられますが、メタバースの良さは、よりリアルに近い空間が再現されているという点にあります。オンライン会議ツールの場合、顔を見ながら特定の人と話したり、誰か一人が講演したりすることは可能ですが、同じ場にいるさまざまな人と話すことは難しくなります。メタバースの場合、相手と離れると声が遠くなるなど、現実空間に近い状況が再現されていて、空間内を移動することでさまざまな人とコミュニケーションを取ることが可能です。また、骨肉腫の場合、治療によって髪の毛が抜けてしまう患者さんが多く精神的な負担がありますが、アバターを使えば、見た目を気にすることなく、いつでも交流することが可能です。
今回開発されたメタバースによって、遠方にいる同じ病気の患者さんと出会える確率が高くなり、情報交換や悩みの共有などが可能になります。「特に子どもの場合、学年が少し違うだけでも話しにくさを感じるものです。また、がんの発症部位などによっても悩みが変わりますので、可能な限り同じ条件の患者さん同士が交流できるようにしたいと考えています」(長谷井先生)。
患者さん同士だけでなく、ご家族の情報共有にもこのメタバースは活用できます。また、既に治療を終えたがんサバイバーの方に参加してもらい、社会生活での体験を話してもらう場を設けることも検討されています。
長谷井先生が開発したメタバースは、2023年6月に空間のデザインと構築が完了しており、既に運用可能な状態になっています。現在は、全国各地の拠点病院との連携を進めており、年内に試験運用が開始されます。
今回のようなメタバースを使えば、がん以外の希少疾患など、他の病気でも患者さんの精神的ケアを行うことが可能になるでしょう。また、今回はオンライン上での交流に慣れている小児・AYA世代が対象になっていますが、将来的には他の世代の患者さんにも広がっていくことが期待されます。
他にもメタバースが活用できそうな場面はあります。がん体験者ががん患者さんやご家族の相談を受け付ける「ピアサポート」が、岡山大学病院をはじめ、さまざまな医療機関で行われています。メタバースを活用すれば、医療機関まで足を運ばなくても相談が可能になり、利便性が高まるでしょう。また、活用の可能性は、病気を抱えた患者さんのケアだけにとどまりません。メタバースの匿名性を活かして、LGBTの子どもや若者が安心して悩みを話せる交流プロジェクトも始動しています。
今回開発されたメタバースの運用が始まり、「こんなことができるのか」「こういう空間があって良かった」と実感してもらえれば、さらに導入施設が広がり、精神的に救われる患者さんも増えていくでしょう。孤独に闘病する患者さんの心強い味方として、メタバースの活用が広がっていくことが望まれます。