みどりに囲まれた科学公園都市で行われる 最先端技術を駆使したハイテク医療。
( 2009/10/1 )
※2016年、2018年に、小児腫瘍(陽子線治療のみ)、切除非適応の骨軟部腫瘍、頭頸部悪性腫瘍(口腔・咽喉頭の扁平上皮がんを除く)、限局性前立腺癌については、保険適用になりました。
日本人の死因第一位はがんです。しかし、がん治療は新しい医療技術が次々と開発され、これまでは治療が困難だったがんでも治癒が可能になったものが少なくありません。「先進医療」のなかにも、がんの治療法がいくつかありますが、なかでも異彩を放つのが「医学と物理学の最先端技術の結晶」ともいわれる「重粒子線治療」と「陽子線治療」です。この両方の治療が受けられる世界唯一の施設「兵庫県立粒子線医療センター」の菱川院長にお話を伺いました。今回から3回に分けてリポートします。
兵庫県の西部、たつの市にある兵庫県立粒子線医療センターは、粒子線治療の専門施設として2001年に開院しました。JR山陽新幹線相生駅から車で20分ほどの場所に、広大な敷地をもつ「播磨科学公園都市」があり、同センターはその一角に位置します。
播磨科学公園都市は、磯崎新氏、安藤忠雄氏、ピーター・ウォーカー氏など、国内外の著名建築家たちが、“時間とともに成長する森の中の都市”というコンセプトのもとに設計を担当。都市機能と景観の両面を重視し、快適な居住環境と優れた研究環境を備えた科学公園都市を創造しました。
ここには粒子線医療センターのほかに、「SPring-8(スプリング・エイト)」「兵庫県立西播磨総合リハビリテーションセンター」や企業の研究施設などがあります。この科学公園都市を象徴する施設と言える「SPring-8」は、強力な電磁波である「放射光」を生み出すために、電子を光とほぼ同じ速度にまで加速することができる大型の共同利用施設で、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーなどのジャンルで、先端技術の研究開発に貢献しています。
兵庫県立粒子線医療センター外観
粒子線医療センターの敷地総面積は、東京ドームの約1.3倍に当たる5.9ヘクタール。粒子線を作る装置と治療室がある4階建ての「照射治療棟」と入院施設がある2階建ての「病院棟」が庭をはさむ形で建てられています。周囲には自然のみどりがあふれ、全体としてはまるでリゾート地にある保養施設といった風情で、およそ最先端医療が行われるハイテク施設のイメージとはかけ離れた外観です。科学公園都市内の森に生息する野生の鹿が、施設近くで目撃されることも珍しくはありません。
粒子線医療センターの菱川良夫院長は放射線治療の専門医です。1974年に神戸大学医学部を卒業後、兵庫医科大学助教授などを歴任。94年から兵庫県の粒子線治療施設担当参事を務め、粒子線治療の計画立案や同センターの設立に取り組み、2001年の開設時に初代院長に就任しました。同センターで働くスタッフは45人で、構成は医師6人、放射線技師12人、看護師19人、薬剤師1人、物理関係スタッフ3人、事務職員4人となっています。
兵庫県は1989年に、国から「SPring-8」を誘致したことを機に、これを中核施設とする播磨科学公園都市計画を策定。当時の貝原俊民兵庫県知事は、医療・福祉関係の施設をもう一つの柱に据え、粒子線医療センターをこの地に建設することにしました。兵庫県は明石市に県立のがんセンターを持っており、当初は「粒子線医療センターをがんセンターに併設した方が効率的」という意見もありましたが、最終的には貝原知事の判断で、十分な広さが確保できるこの場所に決まりました。
菱川院長は「『今までにないがん治療』という新しい試みに取り組むのですから、新たな気持ちでスタートしたかった。その意味で、従来の様々なしがらみにとらわれず研究ができるこの地に建設されたことは良かったと考えています」と話します。
兵庫県立粒子線医療センターの全体写真
菱川良夫院長
がんの治療法には、患部を切除する「外科手術」や抗がん剤を投与する「化学療法」をはじめ「放射線療法」「免疫療法」など様々なものがあります。このうち放射線療法は、患部に放射線を照射してがん細胞を破壊したり、増殖を抑制したりする治療法で、治療中や治療後の体へのダメージや後遺症が比較的少ない「非侵襲的な治療法」とされています。粒子線医療センターで行われている2つの粒子線治療である「重粒子線治療」と「陽子線治療」も、この放射線療法の一種です。
通常の放射線療法では、「エックス線」や「ガンマ線」と呼ばれる放射線が使われます。菱川院長は「一般的な放射線療法では、人体にはいると徐々に放射線のエネルギーが吸収されてしまい、そのため体の深部にまでエネルギーを運んでがんを破壊することが難しいケースがあり、またがん以外の正常な細胞までも傷つけてしまうリスクもあります。これに対して粒子線治療は、『高エネルギー粒子』と呼ばれる特殊な放射線を使います。粒子線の特徴は、照射しても皮膚に近い体の浅い部分ではエネルギーを放出させずに、がんのある深部にまで到達し、その部分で一気にエネルギーを放出するようにコントロールできることです」と、粒子線治療の長所について話します。
これによって従来の放射線療法では治療できなかった場所のがんをピンポイントで破壊し、さらにその周辺の正常な細胞や臓器へのダメージは、最小限にとどめるという治療が可能になりました。
粒子線治療に使われる粒子線には「陽子線」と「重粒子線」があります。陽子線に使うのは、水素原子をイオン化したものです。重粒子線には、炭素原子をイオン化したものを使い、このため重粒子線を「炭素イオン線」とも言います。単純にがん細胞を破壊する力だけをみると、陽子線はエックス線と同じくらいの能力があり、陽子線より大きな粒子を使う重粒子線は、エックス線の2〜3倍の能力があります。
治療に陽子線を使うか重粒子線を使うかは、がんのタイプや患者の病状などによって判断されますが、一般的には陽子線治療は「前立腺がん」「肺がん」「肝がん」などに、重粒子線治療は「頭頚部腫瘍(とうけいぶしゅよう)」「骨・軟部腫瘍」などに向いているとされます。一方、胃壁や腸壁などに近いところにあるがんは、その壁を粒子線が破壊してしまう恐れがあるため、この治療法は向きません。
陽子線治療を行う施設は国内に数カ所あり、このうち5カ所が先進医療を行う医療機関として承認されています。しかし重粒子線治療を行える施設は、ここ兵庫県立粒子線医療センターと千葉市にある放射線医学総合研究所重粒子医科学センター病院の2カ所だけです。そして陽子線治療と重粒子線治療の両方が行えるのは、世界で唯一、粒子線医療センターだけです。このため同センターでは、どういうケースで、どちらの治療法が効果的かという予測につながる臨床データを集めることができ、今後の両治療法の本格的な普及のカギを握る施設とも言えるでしょう。
同センターは2003年4月から一般診療を開始し、04年8月に、当時の制度の「高度先進医療」として承認されて以降、検査費や入院費などの部分の保険診療が認められるようになりました。06年に制度が変わって「先進医療」としての承認となり、現在に至っています。
粒子の大きさ
現在、粒子線治療に用いられる粒子は陽子(水素原子核)と炭素原子核です。かつて、ヘリウムやネオン原子核が使われたこともありました。
各種放射線の線量分布
陽子線や炭素イオン線(重粒子線)はX線と比べて、深い部分にまでエネルギーを保持しその後一気に放出するという特徴があります。
粒子線加速設備の全体模型
このようにがん治療に多くのメリットがある粒子線治療ですが、施設数が限られているのは、高額なハイテク装置が必要となるからです。陽子線や重粒子線は、単につくり出しただけでは治療に使うことができず、これを体内のターゲット部分にまで達するようにするには、光速近くにまで加速する必要があります。そのために使われるのが「シンクロトロン」と呼ばれる、直径30mの巨大装置で、これによって陽子線や重粒子線は、光の速さの60〜70%に当たる18万km/秒というとてつもない速度にまで加速されます。
シンクロトロンを含む粒子線の加速装置は、巨大な精密機器ということもあり、従来の医療機器とは桁違いに高価なもので、粒子線医療センターの装置は全体で約280億円かかっています。またメンテナンスにも高度な技術が必要で、欧米では同様の装置が、設置はしたものの実際には稼働していない、というケースが少なくないといいます。このため同センターでは、施設のスタッフと、装置の納入メーカーとしてメンテナンスを行っている三菱電機との協力体制を密にしています。
このような最先端の治療法を担う医療スタッフには、当然特別な技能を持った医師たちの存在が不可欠のように思われます。しかし菱川院長は「この施設に、特別な医者は必要ありません」と断言します。次回は、菱川院長の施設運営に対するユニークな信念や目指す将来の方向性などについてリポートします。そして第3回(最終回)は、治療を受ける場合の手順や実際の治療の様子など、治療を望む患者にとって役に立つ情報を紹介します。
シンクロトロン加速装置
線形加速装置